
[受験歳時記] 第59回「ノーベル賞」
アンダンテ
人と道ですれ違う。近づきながらこちらが右に避けるとあちらも避ける。ならばと左に避けると向こうも同じ動きをする。衝突しそうなほどに接近しても双方の譲る気持ちと避けるテンポがかみ合って、まるでステップそろえて楽しくダンスでもしているかのように見えるだろう。しかし、これが、例えば渋谷駅前の交差点ではあまり見かけられない。青信号を合図に一斉に歩行者が一点に押し寄せるが、マーチングの団体演技のようにぶつかることもなく整然と交差し、すり抜けていく。不思議に思っていたら、たまたま、ノーベル賞のパロディ版である「イグ・ノーベル賞」の発表があり、今年は歩きスマホの群集実験を行った研究者(村上久さん)に贈られた。それによると、歩行者はいつも「あうんの呼吸」で互いの動きを予測しながら、衝突を回避しているという。音楽の速度標語に「歩く早さで」という意味の「アンダンテ」という用語があるが、人は相互の微妙な間合いをアンダンテのテンポで安全にすれ違うための秩序を保っているのだろう。
デンケン
一方、本家のノーベル賞では、気候変化をコンピューターで再現する「気候モデル」の開発者、真鍋淑郎さんが物理学賞に決まった。受賞を伝える新聞によれば、そもそも研究に着手した当初の半世紀以上も前では、まだ日本国内にはコンピューターと呼べるような代物すらなく、ミシミシときしむ音を立てる木造の研究室で台風の複雑な動きを手計算で予測するしかなかったという。研究中に議論が白熱すると、ふと「ちょっとデンケンしてくる」と席を立つことがあった真鍋さん。デンケン(denken)とはドイツ語で「考える」という意味。“weather(天気)”には「難局を乗り切る」という動詞の意味もあるそうだが、施設、機器、技術が整わず、何もかも不備、不便、不十分な時代に、手計算で導き出した降雨の計算方法が、その後、米国の気象局を驚かせ、気象学を動かしたのである。言い換えれば、デンケンを経て生まれた頭の中の壮大なマシンが、どんな複雑なしくみをも手計算で紙の上に表現してしまう力業を見せつけたのである。
カラオケ
科学関連の優れた小文は、ありふれた暮らしの話題から入っていつしか科学の本丸の話になっている。一階の日用品売り場から入ったはずが、知らぬ間にデパート屋上の科学展に迷いこんでいたというようなわくわく感がある。先年にノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんの回顧録を見かけた。興味深いのは、カラオケで『迷い道』を歌おうとして「現在、過去、未来」という歌い出しに疑問を持ったという箇所。なぜ「過去、現在、未来」の順番でないのか。結果、得た結論は、未来は過去まで立ち戻って見よということ。過去から見れば、電池の小型化と軽量化という未来は実現されるべき必然だったということ。繰り返し充電が可能な小さくて軽い電池を発明した研究と、マイクを握って歌を楽しむ日常とは博士の中ではつながっていたらしい。
おごそかに、穏やかに来る年を迎えたい。
真新しいピアノの鍵盤に、はじめの音をおく気持ちで。
増田 恵幸
著者紹介:SAPIX中学部にて高校受験指導、受験情報誌『SQUARE(スクエア)』編集に携わる。2019年定年退職。在籍時より『受験歳時記』を執筆。
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