[受験歳時記] 第57回「9×9」
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[受験歳時記] 第57回「9×9」

美しい習慣

電車が止まると、5、6人の野球部員が乗り込んできて、横並びにどっかり腰を下ろし、車内は満席になった。大きなスポーツバッグを床に置き、マスク越しでにぎやかに話している。次の駅で杖をついた老人が2人乗ってきた。と、床のスポーツバッグが一斉に宙に浮いたかと思うが早いか、占められていた座席ががらんと空席に。野球部員たちは、何事もなかったかのようにドア付近に立ち、楽しそうに会話を続けている。

佐多稲子の小説に「水」という短編がある。駅のホームで少女が泣いている。奉公先で母急死の報を受け、取る物も取り敢えず田舎へ駆けつけようと列車を待っている。母を思うと涙は次々と溢れてくる。が、ふと泣き止み、すぐ横の駅員詰所の脇にある水道に向かい歩きだした。栓でも緩んでいたのか水がぽたぽたこぼれ落ちる水道の蛇口を締め直すや、また長椅子に戻ってきて、再び顔を被い泣き出した。そんな内容の短い作品である。緩みは締め、弛みは結ぶ。母の躾か、奉公先での教え込みか。身に付けられた美しい習慣は、ふとした瞬間、無意識に表れ、心洗われる行為として人の目には映るものだ。


大谷翔平選手

「打って魅せ 走って魅せて 投げて魅せ 笑顔で魅せる 四刀流」。大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷選手へのそんな賛辞があったが、今、私たちはとてつもない伝説を同時代人として目にしているのかもしれない。なぜ、あれだけのスペクタクルを楽しそうにこなせるのか?技術やパワーだけでなく、折れたバットをボールボーイにグリップ側を向けて手渡す自然な振る舞いも注目されている。

その背景には高校の野球部時代の「目標達成シート」が関係あるらしい。9×9マスの中心に「大目標」、その外枠に「要件」、さらにその外側に「心掛け」を全部で81マス記入するというものだ。そして大谷シートでは「大目標」に「8球団からドラフト1位指名」と書かれ、以下「要件」や「心掛け」には、球速160kmとか一喜一憂しないといった技術・メンタル面のほか、ゴミ拾い、審判への態度、道具を大切になどと書き込まれているという。おそらくは野球部員たちのような、あるいは駅のホームの少女のような、見返りを求めぬ習慣や善行を黙々と積み、実践を重ねてきての今の異次元の活躍があるのだろう。


藤井聡太棋士

『スクエア』207号の合格者インタビューの中で、模試の後に「感想戦」を楽しんだという話題がある。自分たちの解答にツッコミを入れ合ったり、根拠を説明し合ったり、試験直後の熱した頭には、これ以上の刺激剤はなく、あれこれ言い合える仲間のありがたさを身に染みて感じる機会でもある。棋界の若きスーパースター藤井聡太三冠も「感想戦は敗者のためにある」という言葉が好きだそうで、納得できるまで突き詰めて、より良い一手を対局者と探り合うことで力を付けてきたらしい。詰将棋で培った最善手を次々連発できる終盤力、磨き抜いた研究心、AIをも凌ぐ読み筋を考え出す知力と感性。「人間は将棋がどこまで強くなれるのか、その物語を見ているようだ」という観戦記があったが、黒紗の羽織に若草色の着物を合わせた出で立ちの若者は、「打って魅せ 指して魅せたら 詰んで魅せ 笑顔で魅せる 十九歳」なのだ。

9×9のシートを自分の設計図として出発した野球の申し子も、9×9の盤を前に正座する将棋の申し子も、共通して追いかけているのは記録や数字ではなく、好きであることこそ最強なのだというゴールなのかもしれない。

※佐多稲子「水」・『女の宿』所収・講談社

増田 恵幸
著者紹介:SAPIX中学部にて高校受験指導、受験情報誌『SQUARE(スクエア)』編集に携わる。2019年定年退職。在籍時より『受験歳時記』を執筆。

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