[受験歳時記] 第58回「聞き違い」
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[受験歳時記] 第58回「聞き違い」

マスク生活

夕暮れ迫るレストラン。窓際の席の厚手のカーテンを少し開けながら坊やはつぶやくように言った。「お外は暗いよ」。すると隣の若い母親がいきなりふきだした。もちろん母親は聞き違えたのである。こんな小さな子が、窓の外を見ながらはかなげに「男はつらいよ」などと溜め息まじりに言うものだから。しかしマスクをしたままでは無理もない。五十音図の中に秩序立って収められていたはずの日本の「言葉」が、マスクの網目を通すと子音と母音とに解体されでもしてしまうのか、「音」としてしか聞こえてこない。「吾輩は猫である」と伝えたくても「七階は書庫である」と聞こえてしまうような、そんなマスク生活が続いている。

冊子のタワー

『スクエア209(10・11月)号』に今春の開成高校合格者の母子インタビューが掲載されている。同時に、学業のお守りは受験に向けての秘めた闘志を、優勝を果たした運動会での大パネルは入学後の最高潮の興奮を、それぞれのカラー写真※が伝えている。なかでも背丈以上に積み上げられたテキストは、単なる使用済み教材の山ではなく、引退したアスリートが現役時代の用具を大切に納めておく収蔵品の展示を思わせる。それは格闘の爪痕を色濃く残し、本人用にカスタマイズされた学習資料から成るタワーのようでもあり、これまでの学習量と知識の山は、これからの知的判断の礎を成していくものだということがよく分かる。

※写真は『スクエア209(10・11月)号』冊子版にのみ掲載しています。

物干し竿

母子インタビューの中で母親は、息子への山ほど言いたいことは2割に留め、抑えた分は、洗濯物を干しながらぶつぶつ言っては発散していたと明かしている。おそらくは洗濯物の水気をパンパンと手で払っては鬱憤を弾き飛ばし、襟や袖口のシワをキュッキュッと手で伸ばしては気持ちを平らかにしようと努めてきたことだろう。洗うのは洗濯機でも、仕上げは手である。子どものシャツと親のシャツが物干し竿で風に揺れながら手を繋いでいる。考えてみれば親子のバトルは勝ち負けではなく、いつも引き分けがいいのかもしれない。やがて乾いた洗濯物にたっぷり含まれたお日様の匂いが、まだ小さかった頃の子どもの髪の毛の生え際から立ちのぼっていた甘やかな匂いを思い起こせる。

スランプ

母子インタビューの最後には、合格を祝って家族で乾杯した時に、「今まで、勉強しろと言わないでくれてありがとう」との息子の一言がうれしかったという母親の言葉が紹介されている。息子の代わりに物干し場の洗濯物たちが、母親の気持ちを聞いてくれていたのだろうし、母親の喉まで出かかっていた息子への思い、叱咤のことごとくを、息子の側でも声にならない母親の言葉として受けとめていたのかもしれない。

そんな時、マスク越しの会話が役立ちそうだ。たとえばこんな聞き違い。

「ほら、またまた勉強の時間でしょ。今のうちにうんといっぱいしておきなさい」。マスク越しに促す母親のそんな言葉を、子はたまたまスランプだった自分の状況に当てはめてうまく聞き違え、やがてすんなりと立ち直る。すなわち「ほら、まだまだ練習の時間でしょ。今のうちにうんと失敗しておきなさい」。

増田 恵幸
著者紹介:SAPIX中学部にて高校受験指導、受験情報誌『SQUARE(スクエア)』編集に携わる。2019年定年退職。在籍時より『受験歳時記』を執筆。

◆『受験歳時記』第1~55回のバックナンバーは、SAPIX中学部ホームページで読むことができます。第56回以降は、マガジン「コラム[受験歳時記]」からご覧ください。

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